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我が心の中央アジア

1989年
 今となってはひと昔、、、のことだが、1980年代最後の年に、訳あって大学生活の5年目を迎えていたボクは、都内のボロアパートで、戦車が人民に向かっていく映像をライブで見ていた。それから半年もしないうちに、同じ大陸の反対側で鉄のカーテンが叩き壊される映像を見ることになった。こんなことはここに書かなくても誰でも知っていることであるが。
 その頃、まだヒヨコであり、戦争で日本に勝った国の影響を強く受けた戦後教育を義務として受けてきたボクは、こんな国々には絶対にいかんだろうな~、、、と学生ながら思っていたのであった。
 しかし、それから1年も経っていないのに、ボクは戦車が人民に向かっていた、まさにその場所に行き、その都市で仕事をしていた。それ以降、その都市には間違いなく100回は行っているであろう。
 同様に、それから1年もしないうちに、同じ大陸の反対側で、壊れた実物の鉄のカーテンを目の当たりにし、それどころか、その地域で特に強大な力を持っていた連邦国家の首都にある、赤という色を名に付けた広場にも立っていた。ちなみに、その強大な国は、その時点ではまだ分裂していなかった。

1990年
 ボクはソ連という国に関して何の予備知識もなくモスクワに降り立った。つまり、当時の日本人のほとんどが抱いていたソ連に対する悪いイメージをそのままソ連に持ち込んだのである。ひょっとすると二度と帰れないかもしれない、牢屋にぶち込まれるのでは、、、などと真剣に考えていた。
 その日は、日本では三連休だったせいか、それともたまたまなのか、モスクワ行きの飛行機は満席であった。エコノミークラスの窓側の席に押し込まれたボクは、自分の隣の席と、さらにその向こうの通路側の二席を新婚カップルに完璧にブロックされていた。乗った瞬間からイチャイチャし続ける新婚カップルに対して、「おまえら、なんで新婚旅行でソ連やねん?」と文句の一つでもかまそうとしたら、機内アナウンスが、その飛行機は「モスクワ経由ローマ行き」ということを告げていた。。。あらためて機内を見回すと、エコノミークラスのほとんどの席が新婚と思われるカップルで埋め尽くされていた。その証拠に、モスクワで降りた乗客は、ボク以外には60代と思われる日本人が一人とソ連人と思われるオッサンが一人だけであった。モスクワに着陸したとき、隣のカップルが「どうせこんなところで誰も降りないのだから、経由しなくていいのに。。。」なんて言っていたので、うっかりとしたフリをしながら、わざと足を踏みつけて飛行機から降りたことはいうまでもない。
 
 すごい旅であった。
 国際空港でどうにかこうにか入国審査を済ませたボクは、そのまま国内線の空港に移動し、アルマティ(当時のカザフスタン共和国の首都)に移動することになっていた。ちなみに、その日は、大阪・伊丹→東京・成田(約1時間)、成田で2時間待って、東京・成田→モスクワ(約10時間)、モスクワで移動と待ち時間が6時間、モスクワ→アルマティ(約6時間)で、日本とは時差がたったの3時間のアルマティには約1日掛けて明け方着くというものであった。空港間の移動の手配だけはあらかじめ頼んでいたのでなんとか移動はできたものの、空港に着いてもチェックインカウンターがどこにあるのか全く判らない。そりゃそうである、これだけの量のロシア語を目にするのは初めてである。結局、飛行機に乗るまでにいろいろな事件が起こったのだが、とりあえず割愛する。いずれにしても、すったもんだの挙句チェックインし、ボーディングパスを貰ったものの、今度はそのボーディングパスが本当にアルマティ行きなのかどうかも判らないような状況である。それにしても、空港間を移動しているときに見たモスクワは、表面的には西側そのものであった。ついこの間まで冷戦をしていたとはまったく思えなかった。
 アルマティには、明らかに国賓が来訪しているという感じで、ソ連の国旗と見たことはあるもののどこの国のものか判らない国旗があちこちに掲げられていた。とりあえず、ボクにはどうでもよいことなので、淡々と仕事をして二日間の滞在を終えた。
 次の目的地はウズベキスタン共和国の首都であるタシュケントであった。今度は、アルマティ→モスクワ(6時間)+モスクワ→タシュケント(5時間)である。。。 ちなみに、普段よく耳にする、ボーイングやエアバスなんて飛行機はどこにもない。ボクの知っている言葉をいくら捜し求めても、ソ連で乗った飛行機はすべてが軍用機としか表現のしようがなかった。
 タシュケントには、明らかに国賓が来訪しているという感じで、ソ連の国旗と見たことはあるもののどこの国のものか判らない国旗があちこちに掲げられていた。とりあえず、ボクにはどうでもよいことなので、淡々と仕事をして二日間の滞在を終えた。
 次の目的地はトルクメニスタン共和国の首都であるアシュガバードであった。今度は、タシュケント→モスクワ(5時間)+モスクワ→アシュガバード(5時間)である。。。 もう体力の限界であった。
 アシュガバードには、明らかに国賓が来訪しているという感じで、ソ連の国旗と見たことはあるもののどこの国のものか判らない国旗があちこちに掲げられていた。深夜1時くらいに着いたボクは、空港まで出迎えに来てくれた、なぜか英語を話すソ連人のおっちゃんが「この街には、あれ(冷戦終結)以来、西側資本が積極的に入ってきたので、ソ連で最高のホテルがある!」と言うのをほとんど眠り落ちそうな状況で聞いていた。今までの二都市のホテルが、日本人からすると想像を絶するほど劣悪なホテルだったせいか、もう劣悪環境に慣れきっており、「もう~、どうでもええわ」という気持ちになっていたので、ホントにもうどうでもよかった。。。 多分、戦後ソ連に抑留されていた人も、こういう風に徐々に「もう~、どうでもええわ」となってしまったのではないか、、、と一瞬思いをはせたものの、彼らはもっともっと大変だったに違いない、と考えを改めた。
 アシュガバードの空港から車で1時間くらい砂漠のような風景(あまりに暗かったので砂漠と思っているだけかもしれない)の中を走り、ようやくたどり着いたところは、辺りには何もないものの、その場所だけが、超近代的な確かに西側風のホテルであった。それも、星が4つか5つは付くと思えるようなホテルである。そのホテルを見た瞬間、「もう~、どうでもええわ」が吹っ飛んで天国にでもいきなり連れて来られた気になった。そのホテルにも、ソ連の国旗と見たことはあるもののどこの国のものか判らない国旗があちこちに掲げられていた。有頂天のボクは、夜も遅かったので、ホテルの入り口まで着いたところでソ連人のおっちゃんには先に帰ってもらった。
 ロビーを横切りフロントに着くと、多分人生で会った中では上位3人には入るのではないか、という美女が受付を担当していた! 更に有頂天になったボクは、とりあえず、他の言葉の選択肢もないので、英語で、「チェックインしたい」とニコニコと話しかけてみた。すると彼女はこの国の人にもかかわらず、すごくきれいな英語で答えてきた。「実は、このホテルには朝一番にイラ○の要人がやってきます。よって、警戒のために今夜からホテルには誰も泊めることができません。予約を取っている方には申し訳ないですが、お泊めすることはできません」
 呆然と立ち尽くすボク。。。 腕時計の針は2時半を示している。ボクは、動転しながらも、「他にホテルはないのか」と尋ねると、胸にELENAという名札を付けた彼女は、「ここは場所が場所だし、、、ほとんどのホテルが警戒態勢を取っているはずで、、、泊めてくれるかどうかは判りません」と半ば同情しながら答えた。「それでは、朝までこのロビーのソファーで仮眠を取って良いか?」と聞くと、「敷地内が立ち入り禁止となっているので。。。」と答えにくそうに答えた。彼女としても、どうにかしてやりたい反面、なんともできないため、逆に困ってしまったようであった。二人とも沈黙してしまった。目の前に天国を発見しながら地獄に落ちてしまったボクは、再び「もう~、どうでもええわ」という気分になり、逆に客観的に状況を見始めていた。そのせいか、「それにしてもボクの教育を受けたソ連という国は、サービス業にはこんなに愛想の良い人はいないはずなのだが。。。」な~んて、現状とはまったく関係のないことを考えていると、突然彼女が口を開いた。「私のアパートに来ますか? 私も、あなたが今日予約した中で最後の客だったので、事情を伝えないといけないからこの時間までいたのですが、もう帰るので。朝まで仮眠を取っていただくくらいなら。」 あまりに突然の申し出であったので、ボクが何も返事できないでいると、「レッツゴー」(なぜ英語?)と言って彼女は外に向かって歩き始めてしまった。今にも止まってしまいそうなボロボロの彼女のマイカーは、思ったよりキレイなアパートの前で止まった。

1997年。
 ワールドカップのフランス大会予選。日本はトルクメニスタンの隣の国であるウズベキスタンとホーム&アウエイで戦うことになった。
 ボクとELENA、それに、もう5歳になってサッカーに興味を持ち始めた息子の三人は、加茂監督率いる日本対ウズベキスタンを現地タシュケントまで見に行ったのであった。
 あのとき、モスクワ行きの飛行機の中で、新婚カップルを横目に「二度と日本に帰れないかもしれない」と不安で一杯だったボクは、意外にも自らの意思で日本に帰らなかったのであった。。。

(筆者解説)
 今までクダラナイ話を一杯書いてきましたが、この話が最もクダラナイような気がします。
 あの頃、冷戦は一応終って、ソ連も東欧各国と同様に崩壊に向かっており、既にポスト・ソ連体制を睨んで、西側各国及び中東各国が旧ソ連の各共和国に投資を開始していました。この話に出てくる超近代的ホテルは、イタリア資本が入ったホテルでした。また、ボクと同じ時期に各国を歴訪していたのはイランの国家元首です。特に「○△スタン」と名の付いた旧ソ連の五カ国には、宗教的な繋がりもあり、トルコを中心に中東の影響が出始めていました。
 とはいえ、このように一部には素晴らしい物質文明が入っていたものの、一般的には、電話にはダイヤルがなく(つまりノッペラボウな電話機)、全ての通話は交換手経由で、社会主義体制であったついこの前までは普通に盗聴が行われていたことを感じさせられるような時代でした。
 あの頃、足繁く訪問していた当時ソ連と呼ばれていた地域には10年以上も訪問できていません。次に行ったときには、発展していてほしいような、いや発展していてほしくないような、妙に気になる地域です。






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コメント (2)

旅先での出会いは何故か特別な感じがしますよね。
というか、うらやましすぎる展開ですw

ぱんちょ:

 ありえない。。。
 自分で書いていて、アホらしくなってきた。しかし、トルクメニスタン(および、他の○△スタン国)は本当に良い国です。

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