ヒッチハイク
東名東京インター入り口手前にあるマクドナルドに車で入ろうとすると、路上に怪しげな人物が立っていた。
怪しいと思ったのはボクの勝手ではあるが、実際に、真冬の深夜の路上でダンボールの一片を抱えた若い男が立っていると不気味なものである。
そのダンボールには「京都」と書いてあった。
ヒッチハイクをしたいようである。
と言われても、こちらは京都に行くほど暇ではないので、他をあたってもらうしかない。
20代前半のころ、偶然が重なってカナダに住むことになった。
当時独立の気運が頂点に達していたケベック州最大の都市であるモントリオールに住み始めたボクは、パン屋でパンすら買えないフランス語力に四苦八苦しながらも、日本的なシガラミの一切ない北アメリカでの生活を満喫していた。
当時のモントリオールには、エクスポ(ズ)〔フランス語はエクスポ、英語はエクスポズ:以下、エクスポズ〕という毎年ナショナルリーグの東地区では優勝を争っているチームがあった。ちなみに、ナショナルの東地区関連でいうと、当時のメッツの監督は読売にいたジョンソンだったし、エクスポズでも中日にいたモッカがコーチをやっていた。また、クロマティを始めとして、エクスポズ上がりで日本でもプレーをした選手は異常に多い。
その年、8月の前半までエクスポズとパイレーツとメッツが激しく首位争いをしていた。
4月から当然のように地元のエクスポズを応援していたのだが、あまりのデッドヒートに、ホームゲームは全て見に行くということになってしまった。
そのデッドヒートの最中、8月中旬にニューヨークでメッツとの三連戦が行われた。
「これは行くしかないか!」と思ったボクは、中華街の香港人から得た「プラハ発モントリオール経由ニューヨーク行きののチェコスロバキアン航空が安い」という情報を元に、チェコスロバキアン航空でニューヨークに乗り込んだ。
結果的に、エクスポズはニューヨークでの戦いで三連敗し、そのまま3位でシーズンを終えることになる。
しかし、三連敗してモントリオールに帰ったあとも、ボクはエクスポズの応援をそれまで以上に行っていた。
スケジュールをあらためて見てみると、まだほぼ全てのチームとの対戦が残っていた。
そのときなぜか「これは地元だけでなく遠征の試合もできるだけ行くしかない」と思ってしまった。カナダとアメリカを足すと日本の51倍もあるということすら気付いていなかったのである。
その後の2ヶ月の間、ボクは北米中を東奔西走、いや右往左往することになる。
一度地元に戻ったチームは、三連戦のあと、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴと転戦する予定になっていた。
金のないボクは、バスでチームを追った。
モントリオールからサンフランシスコまで飛行機の直行便で6時間も掛かるところをバスで追いかけた。
バスを5回くらい乗り換えたボクがゴールデンゲートブリッジを見たときには、三連戦の三戦目に突入していた。
さすがに、ロサンゼルスとサンディエゴの試合は全て見ることができた。
サンディエゴの最終戦のあと、チームは専用機でモントリオールに帰っていった。
バスで追いかけた。
再び数試合見逃した。
約一週間地元にいたチームは、ヒューストンに飛んでいった。
バスで追いかけた。
二試合見逃した。
シンシナチ、シカゴ、モントリオール、アトランタ、ピッツバーグ、モントリオール。。。
なぜエクスポズを追いかけているのか自分でも判らなくなってきた。それでも追いかけていた。
今から思うと、あの頃の若いボクは、エクスポズではなく、人生の中の何かを追い求めていたのかもしれない。
数年後に映画「フォレストガンプ」を見て、主人公の気持ちとあの頃の自分の気持ちが妙に一致しているような気がしてならなかった。
行く先々では、様々な文化も訛りもあって、ケベックというほぼ完全にフランス系住民だけの州(これはこれで特異だが、、、)では体験できないことを色々と体験することができた。
「追っかけ」のおかげでアルバイトもサボりがちだったので、お金がますますなくなってきた。
そこでボクはヒッチハイクを始めた。
モントリオールから目的地までのフリーウェイのルートを調べ、その途上にあるできるだけ大きな都市名を幾つも紙に書いて路上で掲げ、拾ってもらうのをひたすら待ったのである。
現実的には、ほとんどの場合、すぐに誰かが拾ってくれたものである。ヒッチハイクそのものが浸透しているのであろう。
そして、その大きな街までは行けなくても、双六のように少しづつ前進を続けることができた。横道に逸れることや、逆戻りすることも時々はあったが。
ボクを拾ってくれた人の中には、トラックの運ちゃんもいたし、引越し中の人もいたし、新婚旅行中の人もいたし、本当に様々な人がいた。偶然にしては運が良かったのは、危なそうな人や怖そうな人はほとんどいなかったということである。
さすがに、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった「日本」を知らない人はいなかったが、なぜ日本人がエクスポズを追いかけているのかを理解する人は皆無であった。というよりも、自分でも判っていなかった。
自分でも、その日はどこまで双六の駒が進むか判らないので、ホテルの予約なんてまったくできなかったのだが、ボクを降ろす際に「泊まるところが決まっていない」と知ると、家に泊めてくれる人も沢山いた。
ある女性に乗せてもらったときには、彼女も長距離を移動していたので、一緒にモーテルに泊まろうと勧められ、さすがにご遠慮申し上げたものの結局一緒に泊まるはめになったこともあった。
しばらくすると、地元テレビ局からコンタクトがあった。
「どうしてキミはいつもどの球場にもいるのだ?」という質問である。
どうも同一人物らしい東洋人が大陸中の球場に出没するので、全ての試合を撮っているテレビ局(つまり彼らも移動している)が気になってコンタクトしてきたというわけである。
ヒッチハイクで移動していると聞いた彼らは、さすがに仰天していた。
この情報は、そのままエクスポズの耳に入り、今度は球団からコンタクトがあった。
「そんなに好きなら専用機で一緒に移動しないか」と。
これはスゴイことである。
しかし、まだ若くて汚れを知らない少年だったボクは、「それでは意味がない」というそれこそ意味不明な事を呟いて、再びヒッチハイクを続けたのであった。
それでも球団は日本でいう納会のようなものに招待してくれて、全ての選手一同と会って話すことができたのは最高であった。
翌年も、春のキャンプ、オープン戦、公式戦と、できる限り追いかけていた。
そのうちエクスポズおよびナショナルリーグだけではなく、アメリカンリーグの球場にすら出没するようになってしまった。
最終的に、当時の26球場全てに乗り込んだところで、大陸横断ヒッチハイクの旅は終わったのであった。
その後、日本に帰ってきても、阪神タイガースを中心に相変わらず全国で野球を見ている。
あの頃よりはお金も多少はあるので飛行機で移動しているが、時々無性に車で行きたくなってしまい、昨年も関東以外では、札幌、仙台、名古屋、甲子園、広島、、、などに車で乗り付けてしまった。あの頃のことを思えば、たいした距離ではない。年齢的にはきつくなってきたが。
日本で働き始めてから、つまり社会に出てから、社会では理不尽な事が多過ぎるのに辟易としている。
正直者は馬鹿をみたり、努力が報われなかったり、ひどいヤツがのし上っていったり。
ボク自身も、理不尽な上司や取引先には何回も遭遇してきた。
そのたびに、人生とはあの頃のヒッチハイクのようなものだと思うことにしている。
その日誰と出会うか分からないし、どこまで進むかも分からない。真っ直ぐ進んでいるつもりでも横に逸れることもある。行きずりの女性とモーテルに入ってしまうこともあるだろう。
しかし、全ての経験から何かは得られると思うし、良い経験も悪い経験も楽しめるようになりたいと思う。生きている限りは。
彼は京都に着いたのだろうか。
ひょっとすると、彼は、道に迷っているボクの前に現れた、あの頃のボクかもしれない。
(関連エントリー)
「あれ以来(ぱんちょな恋の物語)」











コメント (4)
素敵なお話ありがとうございます。
ところで、「このワタクシ」は引退して、「ボク」に変わったんですか?
投稿者: miha | 2007年03月12日 11:41
日時: 2007年03月12日 11:41
主語は時と場合(雰囲気)によって変わります。
→ http://panchona.net/2005/07/200218.shtml
投稿者: Pancho | 2007年03月12日 21:18
日時: 2007年03月12日 21:18
起承転結の“結”の部分にかなり感動しました(^^)
投稿者: えこ | 2008年10月13日 19:22
日時: 2008年10月13日 19:22
えこさま
コメントありがとうございます。
ところで、「結」ってどこだっけ?
そもそも起承転結を意識していなかったもので。。。
投稿者: ぱんちょ | 2008年10月13日 19:23
日時: 2008年10月13日 19:23